『新しい短歌の作法』(大塚布見子)から引用 本居宣長・小林秀雄・三島由紀夫
『新しい短歌の作法』(大塚布見子、現代短歌社)を読み進めています。
冒頭から先人の短歌に対する哲学ワードが出てきたのでメモ_φ( ̄ー ̄ )
◆本居宣長
歌は情をととのえるものだ。
→本居宣長に関する書物は多数読んでおりまして、この「情」は「こころ」と読むようです。
「もののあはれ」とも呼ばれる、「こころ」のしみじみとした動きを整えることができるというのは納得です。
私はこれまで、言葉を多く知っている人は自分の心を客観視できて、心を整えやすいと思っていました。
この本居宣長の言葉を反芻すると、知っているだけではなく、うまく言語化できることが、心を整える上で必要なのかもなと思いました。
「あぁ」という感嘆をちゃんと言語化できると、心が整いますね。
それが短歌というカタチになると、いい感じに気持ちを冷凍保存できて嬉しいです。
(レンジでチンするみたいに)読み返せば、すぐに新鮮な想いが蘇ります✨
◆小林秀雄
中国の『礼記』によれば、礼は詩であると言います。たとえば、人の亡くなった悲しみを嘆くのに、ただ秩序なく泣きわめいていては、悲しみを鎮めることも、悲しみをわかつことも出来ないのです。そこに喪を哭するという工夫が求められ、その工夫が礼であり、人は悲しみをととのえ、わかち、悲しみから救われることが出来るというのです。この礼が即ち詩であるというのです。ここには、もろこしの聖人の深い智慧があると小林秀雄は言っています。
※筆者の言葉と小林秀雄の言葉の区別が不明でしたので、多めに引用しました。
→こちらも、詩(うた)が心を整えるよって話ですね。
親しい人が亡くなった時は特に、心を整える必要があるので、詩が活用されたというのは納得です。
万葉集でも、「挽歌(ばんか)」と呼ばれる死を悼む歌が多くありますね。
ちなみに儒教の話で見かける「四書五経」の五経の中に、
『礼記(らいき)』とは別に『詩経(しきょう)』もあります。
どう違うの?と思って調べたところ、
『礼記』は君臣・親子・男女の在り方を、
『詩経』は文の風雅を述べているそうです☆
◆三島由紀夫
歌舞伎俳優は自由であるが新劇俳優は不自由である
歌舞伎には有って、新劇には無い「型」の尊さを言っているとのことです。
筆者は
短歌も五七五七七の三十一音の不変の型があったからこそ、千三百年余もつづいてきたと言えるでしょう。
とも述べています。
これまでも歌人のコメントで「短歌は57577の型があるからこそ素晴らしい」という主張を何度か見かけたことがあります。
和歌を詠み始めた人は「57577しか無くて、難しい」という気持ちになりがちです。
私も時々、「あと5音あれば」って気持ちになります(笑)。
でも、型があるからこそ、考えるべきことに集中できるんですよね。
型が無い自由詩であれば、ざっくり分けると以下の3つを考えないといけないと思います。
①どんな情(情感・情景)を詠むか
②どんな音数・行数にするか
③どんな言葉を選ぶか
型がある短歌であれば、②は不要で、①と③に集中することが出来ます♪
まぁ、②をあまり考えずに、思いついたままの自由詩にすれば楽なんでしょうけれど、そうなると③もそれほど考えずに作ってしまうリスクがあります。
短歌は57577だからこそ、難しくも、奥深くて楽しくもありますね!