『歴代天皇の御製集』31音口語訳

 
『歴代天皇の御製集』にて取り上げている歌を31音(おん)口語訳しています。
※御製(ぎょせい)とは、天皇がお詠みになった和歌のことです。
※以下、各歌に載せておりますページは『歴代天皇の御製集』でのページです。
 

目次

以下に無い御製の訳

「この歌の31音口語訳を見てみたい」というのがございましたら、
どうぞコメント欄にてお知らせください。
優先的に、その歌の訳に取り組みます。

第125代 上皇陛下

四十年をともに過しし我が妹と 歩む朝にかいつぶり鳴く

四十年(よととせ)
ともに過(すご)しし
我が妹(いも)
(あゆ)む朝(あした)
かいつぶり鳴く

訳:四十年(よんじゅうねん)
  共に過ごした
  后(きさき)との
  朝の散歩で
  水鳥が鳴く

P.280 ☆平成十一年に、結婚四十周年に当たってお詠みになった歌です。

激しかりし戦場の跡眺むれば 平らけき海その果てに見ゆ

四激しかりし
戦場(いくさば)の跡
眺むれば
(たひ)らけき海
その果てに見ゆ
訳:激戦の
  戦場の跡を
  眺めると
  穏やかな海が
  その奥にある

P.277 ☆沖縄平和祈念堂前にてお詠みになっています。

第124代 昭和天皇

風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし 八重櫻咲く春となりけり

風さゆる
み冬は過ぎて
まちにまちし
八重櫻(やへざくら)咲く
春となりけり

訳:極寒(ごっかん)
  冬が過ぎゆき
  待ちに待った
  八重桜咲く
  春が来たんだ!

P.274 ☆GHQによる占領が終わり、独立を回復した時に詠まれた喜びの歌です。

第123代 大正天皇

國のまもりゆめおこたるな子猫すら 爪とぐ業は忘れざりけり

(くに)のまもり
ゆめおこたるな
子猫すら
爪とぐ業(わざ)
忘れざりけり
訳:国防を
  怠けてはダメ。
  子猫でも
  爪を研(と)ぐのを
  忘れはしない。

P.269 ☆

神まつるわが白妙の袖の上に かつうすれ行くみあかしのかげ

神まつる
わが白妙(しろたへ)
袖の上(うえ)
かつうすれ行(ゆ)
みあかしのかげ
訳:白き袖
  照らす祭祀(さいし)
  灯明(とうみょう)
  夜明けとともに
  光薄れる

P.269 ☆題は「社頭の暁(あかつき)」。闇の中の灯明の光が、夜明けによって薄れゆくさまを描いています。

第122代 明治天皇

さまざまの蟲のこゑにもしられけり 生きとしいけるもののおもひは

さまざまの
(むし)のこゑにも
しられけり
生きとしいける
もののおもひは

訳:様々な
  虫の音(ね)からも
  伝わるなあ。
  生きとし生ける
  ものの気持ちが。

P.263 ☆関連ページがこちらにございます

若きよにおもひさだめしまごころは 年をふれどもまよはざりけり

若きよに
おもひさだめし
まごころは
年をふれども
まよはざりけり

訳:若い頃
  決意固めた
  まごころは
  何年経(た)っても
  迷わなかった。

P.265 ☆「まごころ」とは、他人のために尽くそうという純粋な気持ちや、何かの将来を真に心配して奔走する気持ちです。

第121代 孝明天皇(江戸時代)

あさゆふに民やすかれとおもふ身の こゝろにかゝる異国の船

あさゆふに
(たみ)やすかれと
おもふ身の
こゝろにかゝる
異国(ことくに)の船

訳:朝夕に
  民の幸せ
  思いつつ
  気にかかるのは
  ペリーの黒船

P.249 ☆幕末の志士、吉田松陰は兄への手紙の中に、この御製を引用しています。(手紙では上の句が「国安く民安かれと思ふ世に」)

天がした人といふ人こゝろあはせ よろづのことにおもふどちなれ

(あめ)がした
人といふ人
こゝろあはせ
よろづのことに
おもふどちなれ

訳:国民よ
  皆の心を
  一つにし
  亡国防ぐ
  同志となろう

P.252 ☆幕末の激動期、西洋列強の植民地にされそうな中、国内では幕府と雄藩が対立していました。

第120代 仁孝天皇(江戸時代)

天照らすかみのめぐみに幾代々も 我があしはらの國はうごかじ

天照(あまて)らす
かみのめぐみに
幾代々(いくよよ)
我があしはらの
國はうごかじ

訳:天照(あまてらす)
  大御神(おおみかみ)様に
  守られて
  いつも日本は
  揺ぎはしない

P.246 ☆仁孝天皇は本居宣長の『古事記伝』を座右の書とされました。

第119代 光格天皇(江戸時代)

民草につゆのなさけをかけよかし 世をもまもりの國のつかさは

民草(たみくさ)
つゆのなさけを
かけよかし
世をもまもりの
國のつかさは

訳:大飢饉(だいききん)
  苦しむ民に
  温情の
  情けをかけよ。
  徳川将軍。

P.245 ☆天明の大飢饉で幕府の無策に苦しむ数万人が、天皇に救済を賜ろうと御所巡りをしました。
それをお聴きになって、光格天皇は禁中並公家諸法度で行動を制限されているにもかかわらず、幕府に要請し、幕府は救い米(まい)を出しました。

第118代 後桃園天皇(江戸時代)

のどかなる春を迎へてさまざまの 道榮えゆく御代ぞにぎはふ

のどかなる
春を迎へて
さまざまの
道榮(みちさか)えゆく
御代(みよ)ぞにぎはふ

訳:うららかな
  春を迎えて
  様々な
  学芸の道
  御代に栄える

P.242御代とは前代の後桜町天皇の御代のこと。13歳の歌会始でこの歌をお詠みになり、十一月には践祚(せんそ:天皇の位に就くこと)なさいました。

第117代 後桜町天皇(江戸時代)

おろかなる心ながらにの なほやすかれとおもふあけくれ

おろかなる
心ながらに
(くにたみ)
なほやすかれと
おもふあけくれ

訳:未熟だが
  明け暮れ願う
  国民の
  暮らしがさらに
  良くなるように

P.240 ☆皇統断絶の危機に、女帝として尽くされた方です。

第116代 桃園天皇(江戸時代)

身の恥も忘れて人になにくれと 問ひ聞く事ぞさらにうれしき

身の恥も
忘れて人に
なにくれと
問ひ聞く事ぞ
さらにうれしき

訳:恥を捨て
  あれこれ人に
  質問し
  世界が広がる
  ことのうれしさ

P.238 ☆若くして崩御された桃園天皇が16歳の時にお詠みになった歌です。
 口語訳でなくても、そのままでも伝わりやすいですね。

第112代 霊元天皇(江戸時代)

はるかなる田の面を見ても 遑なき民のしわざの程をしぞ思ふ

はるかなる
田の面(も)を見ても
(いとま)なき
(たみ)のしわざの
(ほど)をしぞ思ふ

訳:遥か先
  続く田んぼに
  絶え間なき
  民の苦労が
  また偲ばれる

P.231 ☆民家が少ないのに遥か先まで続く田んぼをご覧になって、民の苦労に御心を寄せていらっしゃいます。

第107代 後陽成天皇(戦国時代~江戸時代)

わきて今日待つかひあれや松が枝の 世々の契をかけて見せつつ

わきて今日
待つかひあれや
松が枝(え)
世々の契(ちぎり)
かけて見せつつ

訳:殊(こと)の外(ほか)
  待つ甲斐あった。
  秀吉が
  変わらぬ誠意
  示してくれた。

P.218 ☆豊臣秀吉が聚楽第(じゅらくてい)に行幸を仰いだことを喜んで詠んでいます。

第105代 後奈良天皇(戦国時代)

愚なる身も今さらにそのかみの かしこき世世の跡をしぞ思ふ

(おろか)なる
身も今さらに
そのかみの
かしこき世世の
跡をしぞ思ふ

訳:我が不徳
  省みてまた
  歴代の
  知徳優れた
  事績に学ぶ

P.211 ☆筆者が心から尊敬している後奈良天皇の御製なので、「愚なる」の訳に頭を悩ませました。

いそのかみふるき茅萱の宮柱 たてかふる世に逢はざらめやは

いそのかみ
ふるき茅萱(ちがや)
宮柱(みやばしら)
たてかふる世に
逢はざらめやは

訳:老朽し
  屋根も古びた
  神宮(じんぐう)
  建て替えられる
  世が来るはずだ

P.211 ☆「式年遷宮(しきねんせんぐう)」という、本来なら二十年に一度建て替えるべきものを、長年建て替えられていないことを嘆いていらっしゃいました。

第104代 後柏原天皇(戦国時代)

敷島のやまとの國のいやつぎに さかゆく道ぞ神のまにまに

敷島(しきしま)
やまとの國の
いやつぎに
さかゆく道ぞ
神のまにまに

訳:神々の
  心のままに
  これからも
  栄え続ける
  大和の国だ

P.208

霜がれの松葉にぞおもふ水底に くちせぬ蘆のもとのねざしを

霜がれの
松葉にぞおもふ
水底(みなそこ)
くちせぬ蘆(あし)
もとのねざしを

訳:枯れそうな
  寒さに思う
  水辺でも
  深く根を張る
  葦の強さを

P.209

第103代 後土御門天皇(室町時代~応仁の乱)

いにしへに天地人もかはらねば みだれは果てじあしはらの國

いにしへに
天地人(あめつちひと)
かはらねば
みだれは果てじ
あしはらの國(くに)

訳:応仁の
  乱でも国は
  ほろぶまい
  天地も人も
  神代(かみよ)に続く

P.205

ともすれば道にまよへる位山 うへなる身こそくるしかりけれ

ともすれば
道にまよへる
位山(くらいやま)
うへなる身こそ
くるしかりけれ

訳:山道(やまみち)
  迷う心地だ
  応仁の
  乱世を過ごす
  天皇として

P.205 ☆応仁の乱の最中から幾度も、譲位して出家したいとの意向を示していらっしゃいましたが、その度に足利義政に止められています。

にごりゆく世を思ふにも五十鈴川 すまばと神をなほたのむかな

にごりゆく
世を思ふにも
五十鈴(いすず)
すまばと神を
なほたのむかな

訳:世の濁り
  清めてほしい
  天照(あまてらす)
  五十鈴の川の
  ように明るく

P.206 ☆五十鈴川は伊勢の神宮にある、禊をする川です。神宮でお祀りしている、皇祖(皇室の最初の祖先)である天照大御神に祈っている歌ですね。

神代よりいまにたえせず伝えおく 三種のたからまもらざらめや

神代より
いまにたえせず
伝えおく
三種(みくさ)のたから
まもらざらめや

訳:神代から
  絶えず今へと
  受け継いだ
  三種の神器を
  必ず守る

P.207

第100代 後小松天皇(南北朝・室町時代)

日とてらし土とかためてこの國を 内外の神のまもるひさしさ

日とてらし
土とかためて
この國を
内外(うちと)の神の
まもるひさしさ

訳:日を照らし
  五穀実らせ
  この国を
  神宮の神
  久しく守る。

P.198 ☆南北朝の時代が終わって、両朝合一して御位におつきになった天皇です。伊勢の神宮の式年遷宮という建て替えのイベントも20年間隔に戻りました。

第90代 亀山天皇(鎌倉時代)

世のために身をば惜しまぬ 心ともあらぶる神は照し見るらむ

世のために
身をば惜しまぬ
心とも
あらぶる神は
(てら)し見るらむ

訳:侵略を
  防ぐためなら
  惜しくない。
  その決心を
  神も見ている。

P.165 ☆亀山天皇は元寇の後に伊勢の神宮に勅使を派遣されて「もしもわが国が侵略され
るようなことがあれば、この命をお召し下さい」という旨の祈願文を奉納されています。

第89代 後深草天皇(鎌倉時代)

石清水ながれの末のさかゆるは こころの底のすめるゆゑかも

石清水(いはしみづ)
ながれの末(すゑ)
さかゆるは
こころの底の
すめるゆゑかも

訳:末代も
  栄える理由、
  歴代の
  心、底から
  澄んでたからか。

P.163 ☆心清らかにして国がまとまれば、元寇という国難も乗り越えられると確信していらっしゃるようです。

第86代 後堀川天皇(鎌倉時代)

くりかへし賤のをだまき幾たびも とほき昔を戀ひぬ日ぞなき

くりかへし
(しづ)
のをだまき
幾たびも
とほき昔を
(こ)ひぬ日ぞなき

訳:機織りの
  ように幾度も
  手繰り寄せ
  昔に戻す
  ことを乞(こ)う日々

P.154 ☆「いにしへのしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」(『伊勢物語』)本歌とする歌です。なお、『吾妻鏡』には同じ歌を本歌取りして静御前が歌った「しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」があります。

第84代 順徳天皇(鎌倉時代)

君もげにこれぞ限りの形見とは 知らでや千世の跡をとめけむ

君もげに
これぞ限りの
形見とは
知らでや千世の
跡をとめけむ

訳:父君も
  形見になると
  思わずに
  未来に遺す
  文(ふみ)書かれたか。

P.153 ☆承久の乱により、父の後鳥羽院は隠岐に、順徳天皇は佐渡に配流になりましたが、隠岐⇔佐渡間でもお手紙による交信は許されていたようです。
小倉百人一首に「百敷や~」の歌が収録されています。

第83代 土御門天皇(鎌倉時代)

浦々によするさなみに言とはむ 隠岐の事こそ聞かまほしけれ

浦々に
よするさなみに
(こと)とはむ
隠岐の事こそ
聞かまほしけれ

訳:あちこちの
  さざ波に聞く。
  隠岐にいる
  父上のこと
  聞かせて欲しい

P.150 ☆土御門天皇は承久の乱には関与されませんでしたが、父君と弟君のお立場を慮って自ら申し出て、土佐に配流されています。

第82代 後鳥羽天皇(鎌倉時代)

天の原雲吹きはらふあきかぜ に山の端たかく出づるつきかな

(あま)の原
雲吹きはらふ
あきかぜに
山の端たかく
出づるつきかな

訳:大空に
  秋風吹いて
  雲払い、
  山の上には
  月が出ている。

P.144 ☆雲が武家政権、月が朝廷を象徴しているようにも思われる歌です。
小倉百人一首に「人も惜し~」の歌が収録されています。

第75代 崇徳天皇(平安時代)

水茎の書き流すべき方ぞなき 心のうちは汲みて知らなん

水茎(みずぐき)
書き流すべき
(かた)ぞなき
心のうちは
(く)みて知らなん

訳:お手紙に
  どう書けば良い。
  わからない。
  私の内心
  汲み取って欲しい。

P.133 ☆讃岐に配流された崇徳院が西行に贈った歌です。『山家集』に収録されています。江戸時代の上田秋成作『雨月物語』にも、崇徳院と西行のやりとりが語られていますよ。
小倉百人一首に「瀬を早み~」の歌が収録されています。

第71代 後三条天皇(平安時代)

思ひ出でば同じ空とは月を見よ ほどは雲居にめぐりあふまで

思ひ出(い)でば
同じ空とは
月を見よ
ほどは雲居(くもゐ)
めぐりあふまで

訳:思い出す
  時は月見よ。
  同じ空。
  宮中でまた
  廻り会えるよ。

P.123 ☆9歳の頃から学問を教わっていた藤原実政が甲斐守として赴任する際の餞別の御製です。

第67代 三条天皇(平安時代)

心にもあらで憂き世に長らへば 恋しかるべき夜半の月かな

心にも
あらで憂き世に
長らへば
恋しかるべき
夜半(よは)の月かな

訳:やむをえず、
  つらい世を生き
  続けたら、
  恋しくなりそう。
  今宵の月を。

P.116 ☆小倉百人一首にも収録されている歌です。

第66代 一条天皇(平安時代)

秋風の露のやどりに君をおきて 塵を出でぬることぞ悲しき

秋風の
(つゆ)のやどりに
君をおきて
(ちり)を出(い)でぬる
ことぞ悲しき

訳:無常なる
  はかない俗世。
  出家して、
  君を置き去り
  するのがつらい。

P.114 ☆一条天皇は、清少納言が仕えた中宮定子&紫式部が仕えた中宮彰子の夫に当たるかたです。この歌は、ご病気が重くなって剃髪された日に中宮彰子に贈った歌です。当時は極楽往生を求めて、死が近づいたら出家する慣習がありました。

第65代 花山天皇(平安時代)

世の中のうきもつらきも慰めて 花のさかりはうれしかりけり

世の中の
うきもつらきも
慰めて
花のさかりは
うれしかりけり

訳:つらい世で
  鬱なこころも
  慰める
  桜の盛り
  嬉しいことだ。

P.112 ☆『大鏡』によると、藤原兼家・道兼に騙されて出家させられた天皇です。

第64代 円融天皇(平安時代)

おもひかねながめしかども鳥部山 はては煙も見えずなりにき

おもひかね
ながめしかども
鳥部山(とりべやま)
はては煙(けぶり)
見えずなりにき

訳:恋しさに
  葬送の地を
  眺めても
  ついに煙も
  見えなくなった。

P.110 ☆中宮が亡くなって葬儀が行われた翌日にお詠みになった歌です。

第62代 村上天皇(平安時代)

教へおくことたがはずばゆくすゑの 道遠くとも跡はまどはじ

教へおく
ことたがはずば
ゆくすゑの
道遠くとも
跡はまどはじ

訳:この本の
  教えに沿えば
  遠くても
  迷わず行ける。
  聖人の道。

P.106 ☆太宰の帥(そち:大宰府の長官)だった18~19歳のとき、太政大臣・藤原忠平が「中国の聖代の跡に習ってほしい」と本をお贈りし、その返事としてお詠みになった御歌です。

第60代 醍醐天皇(平安時代)

春ふかきみやまざくらも散りぬれば 世を鶯のなかぬ日ぞなき

春ふかき
みやまざくらも
散りぬれば
世を鶯(うぐひす)
なかぬ日ぞなき

訳:桜散り、
  皇子(みこ)も亡くなり、
  鶯の
  ように私は
  毎日なくよ。

P.103 ☆21歳の皇太子が病気で薨去されたことを嘆いていらっしゃいます。

第59代 宇多天皇(平安時代)

身一にあらぬばかりをおしなべて 行廻りてもなどか見ざらむ

身一(みひとつ)
あらぬばかりを
おしなべて
行廻(ゆきめぐ)りても
などか見ざらむ

訳:天皇は
  我だけじゃない。
  同様に
  次の帝をに
  仕えて欲しい。

P.101 ☆ご譲位の際に、宮中を離れる人たちに「宮中に戻って幼い新帝に仕えて欲しい」という願いを込めてお詠みになりました。

第58代 光孝天皇(平安時代)

君がため春の野に出でて若菜摘む わが衣手に雪は降りつつ

君がため
春の野に出でて
若菜摘(つ)
わが衣手(ころもで)
雪は降りつつ

訳:君のため
  邪気を祓える
  春の菜を
  雪降り続く
  野で摘んでいる

P.98 ☆小倉百人一首にも収録されている歌です。

第57代 陽成天皇(平安時代)

筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞ積もりて淵となりぬる

筑波嶺(つくばね)
峰より落つる
男女川(みなのがは)
恋ぞ積もりて
(ふち)となりぬる

訳:男女川(みなのがわ)
  下るにつれて
  この恋も
  積もり積もって
  もう溺れそう

P.97 ☆小倉百人一首にも収録されている歌です。

第51代 平城天皇(平安時代)

故郷となりにし奈良のみやこにも 色はかはらず花さきにけり

故郷(ふるさと)
なりにし奈良の
みやこにも
色はかはらず
花さきにけり

訳:旧(ふる)き都(と)
  なってしまった
  平城京。
  荒れ果てたけど、
  花は変わらず。

P.93 ☆平安京から平城京に遷都する院宣を出され、その後、薬子の変が失敗に終わり、出家しています。

第50代 桓武天皇(平安時代)

此の酒はおほにはあらず平かに 帰り来ませといはひたる酒

(こ)の酒は
おほにはあらず
(たひら)かに
帰り来(き)ませと
いはひたる酒

訳:この酒は
  普通ではない。
  平穏に
  帰国くださる
  祈願を込めた。

P.90 ☆遣唐使の送別の宴で詠んだ歌です。「来ませ」という尊敬語に、遣唐使への敬意と気遣いが強く込められています。

第47代 淳仁天皇(奈良時代)

天地を照らす日月の極無く あるべきものを何をか思はむ

天地(あめつち)
照らす日月(ひつき)
(きはみ)無く
あるべきものを
何をか思はむ

訳:天と地を
  照らす太陽・
  月のよう、
  皇位は無限。
  心配無用。

P.86 ☆強制的に皇位を退かされ、淡路に流されたことから、淡路廃帝とも呼ばれています。上記は皇太子時代に詠まれた歌ですが、「何をか思はむ」とご自身の不安感を慰めているように思われます。

第45代 聖武天皇(奈良時代)

大夫の行くとふ道ぞおほろかに 思ひて行くな大夫の伴

大夫(ますらを)
行くとふ道ぞ
おほろかに
思ひて行くな
大夫の伴(とも)

訳:勇敢な
君たちだから
任せたよ。
誇りを持って
赴きたまえ!

P.82 ☆辺境の防備強化のために各地に赴く官職達へ、送別の酒をあげながら詠んだ歌です。

第41代 持統天皇

春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山

春過ぎて
夏来(き)にけらし
白妙(しろたへ)の 
(ころも)干すてふ
(あま)の香具山(かぐやま)

訳:春過ぎて
  もう夏だよね!
  真っ白な
  シャツが洗って
  干されているよ。

P.76 ☆小倉百人一首にも収録されている歌です。

第38代 天智天皇

わたつみの豊旗雲に入日さし 今夜の月夜清明らけくこそ

わたつみの
豊旗雲(とよはたぐも)
入日(いりひ)さし
今夜(こよひ)の月夜(つくよ)
清明(あき)らけくこそ

訳:海上の
  雲は夕日で
  茜(あかね)色。
  月も明るく
  航海照らす。

P.70 ☆百済支援と新羅討伐のための出航後間もない時に、国運を祈って詠まれました。
小倉百人一首の第一首「秋の田の~」は天智天皇の歌とされています。

第35代 皇極天皇・第37代 斉明天皇

今城なる小丘が上に雲だにも 著くし立たば何か歎かむ

今城(いまき)なる
小丘(をむれ)が上(うえ)
雲だにも
(しる)くし立たば
何か歎(なげ)かむ

訳:安置(あんち)した
  遺体の上空
  魂の
  雲さえあれば
  嘆かないのに。

P.66 ☆孫が8歳で亡くなったことを嘆く歌。古文ではよく火葬の煙をその上空の雲に死者の魂があるかのような和歌を見かけますが、火葬前の遺体の上空に魂の雲を想像するのは興味深いです。

第33代 推古天皇(飛鳥時代)

眞蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の眞刀
諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき

眞蘇我(まそが)
蘇我の子らは
馬ならば
日向(ひむか)の駒(こま)
太刀(たち)ならば
(くれ)の眞刀(まさひ)

(うべ)しかも
蘇我の子らを
大君(おおきみ)
使(つか)はすらしき

訳:蘇我の人。
あなた方は、
(たと)えれば、
日向の名馬、
中国の
名刀(めいとう)のよう。
もっともだ。
蘇我一族を
(わたくし)
頼りにしてる。

P.61 ☆推古天皇は蘇我馬子の姪です。しかし、皇室の御領の一部を私領にしたいという馬子の願いを毅然と拒否しています。芯のある女帝です。

第23代 顕宗天皇

置目もや淡海の置日明日よりは み山降りて見えずかもあらむ

置目(おきめ)もや
淡海(あふみ)の置日
明日(あす)よりは
み山降(やまがく)りて
見えずかもあらむ

訳:父上の
  墓を知らせた
  置目さん。
  淡海に帰り
  会えなくなるね。

P.55 ☆顕宗(けんぞう)天皇と読みます。雄略天皇の近臣によって殺された父親の墓の場所がわらなくなっていたところ、あるおばあさんが場所を教えてくれたので、天皇は感謝して皇居によく遊びに越させていました。そのおばあさん(置目)が郷里に帰るときに詠んだ歌です。

第21代 雄略天皇

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます兒 家聞かな 名告らさね
そらみつ 大和の國は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ
われこそは 告らめ 家をも名をも

(こ)もよ み籠(こ)持ち
掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます兒(こ)
家聞かな 名告(なの)らさね
そらみつ 大和(やまと)の國(くに)
おしなべて われこそ居(を)
しきなべて われこそ座(ま)

われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

訳:立派な籠(かご)と、
  土を掘る 良きへら持って、
  この岡で 若菜摘む子。
  家はどこ? 名前なに?
  この国 大和の国は
  ことごとく 我が統治下だ。
  隅々(すみずみ)も  我が統治下だ。
  私から 先に 素性(すじょう)明かそう

P.50 ☆万葉集の最初の歌。当時、男が女の名を問うのは求婚で、女が名を明かしたら求婚の承諾でした。

第16代 仁徳天皇(大和時代 (古墳時代))

山縣に蒔ける菘菜も吉備人と 共にし摘めば楽しくもあるか

山縣(やまがた)
(ま)ける菘菜(あをな)
吉備人(きびひと)
共にし摘(つ)めば
楽しくもあるか

訳:山中の
  畑で青菜を
  摘むことも
  君とだったら
  超楽しいよ🎵

P.43 ☆「民のかまど」の話など、徳があったことで有名な仁徳天皇。『古事記』を読むと恐妻家な一面が見られます。この歌は正妻ではない黒比売(ひめ)にこっそり会いに行って詠んだ歌です。

第15代 応神天皇

須許理が 醸みし御酒に 我醉ひにけり 事無酒 笑酒に 我醉ひにけり

須許理(すすこり)
(か)みし御酒(みき)
我醉(ゑ)ひにけり
事無酒(ことなぐし)
笑酒(ゑぐし)
我醉ひにけり

訳:渡来した
  技で造った
  酒に酔ったよ。
  災い祓い、
  笑み誘う
  酒に酔ったよ。

P.41 ☆応神天皇は神功皇后が身重のまま赴いた新羅遠征からの凱旋と共に誕生。武田信玄の旗印「八幡大菩薩」はこの応神天皇のことです。(仏教伝来前の天皇ですが。むしろこの御代に儒教の『論語』が伝来されています)

第12代 景行天皇(大和時代 (古墳時代))

そらみつ 大和の國は 神からか
住みが欲しき 在りが欲しき國は あきつ島大和

そらみつ
大和の國(くに)
(かむ)からか
住みが欲しき
在りが欲しき國は
あきつ島(しま)大和

訳:故郷(ふるさと)
  大和の国は
  神聖で
  住みたくなるし
  みんな来て欲しい
  愛しい大和

P.39 ☆そらみつ・あきつ島―いずれも「大和」にかかる枕詞です。
 景行天皇は九州親征に出かけています。私の地元(福岡県大牟田市)にも、景行天皇の石碑がありました。

第10代 崇神天皇(神代)

味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を

味酒(うまさけ)
三輪(みわ)の殿(との)
朝門(あさど)にも
押し開(びら)かね
三輪の殿門(とのと)

訳:豊作を
  感謝し神酒(みき)
  酌み交わし
  朝には開く。
  三輪の戸口を。

P.37 ☆天災が多発ずる中、夢に大物主大神が現れてお告げをし、それに従ったら疫病が止んで五穀も十分に実ったため、三輪の大神(おおみわ)神社で大物主大神をお祀りになられました。その三輪の大神神社での酒宴での和歌です。

初代 神武天皇(神代)

楯並めて 伊那佐の山の 樹の間よも
い行きまもらひ 戰へば 吾はや飢ぬ
島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね

(たて)(な)めて
伊那佐(いなさ)の山の
(こ)の間(ま)よも
い行(ゆ)きまもらひ
(たたか)へば
(われ)はや飢(ゑ)
島つ鳥
鵜養(うかひ)が伴(とも)
今助(す)けに来(こ)

訳:東征(とうせい)
  山越え敵と
  戦えば
  味方の食糧
  不足した。
  鵜飼をする友
  支援を頼む

P.34

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