与謝野晶子「海恋し」

『新しい短歌の作法』(大塚布見子、現代短歌社)の中で、
歌の句切れに関する話が大変勉強になりました!

外山滋比古氏は『省略の文学』句切れについて、

切れば言葉に間ができる。 沈黙である。

と述べているそうです。

「間」というのは日本のいろんな伝統文化で大事にされてきたと私は認識しています。
芸人さんも、「間」をとっても大事にしますよね!

北野武氏による『間抜けの構造』 (新潮新書)を読んだ際に、「間」に対してこんなにも深い哲学があるんだ!と驚きました。

さて、「句切れなし」「初句切れ」「二句切れ」…といろんな和歌を紹介してくれている中で、特に衝撃を受けたのがこちらの初句切れの歌です。

海恋し
潮の遠鳴り
かぞへては
少女(をとめ)となりし
父母(ちちはは)の家

与謝野晶子

人口に膾炙して、堺の生家跡には歌碑にもなっている歌だろうです。

「海が恋しい。」と初句切れなのですが、すぐに「潮」という縁語があることで、「間」が気にならずに、自然に繋がっているように感じます。

実際はこんなに絶妙な初句切れの歌を詠むことは難しく、

「初詣で」などの初句が、「この歌は初詣でのことなのですよ」という詞書のようになってしまっています。
(『新しい短歌の作法』(大塚布見子、現代短歌社)より引用)

詞書(ことばがき)のルールは歌会によって異なるようです。
詞書NGの歌会であれば、字余りでも「初詣での」にするか、二句目以降に入れてみると良いのでしょうね。

初句切れは、一首の結論づけを初句でしてしまうので、よほどの作歌力がないと歌の興味を結句までつなぎ止めることがむつかしくなります。従って、どうしても歌の頭が重くなり、歌のすわりを軽くします。つまり、正岡子規のいう「頭重脚軽」の歌になるのです。
(同)

私がこれまで教わってきた考えとも一致しました。

日本語は文末(~です。~ではない。~だろよいな。等)で
主張が明らかになるのと同じように、
和歌は下の句が大事です。

序詞で自然と人事(人の心情)を同時に読み込んだ歌などは、
前半が自然で、後半に主張のメインである人事が詠まれることからも、
やはり下の句こそが大事だと言えます。

参考までに、序詞で有名な百人一首の歌を載せておきます。(傍線部が序詞)

住の江の
岸による
よるさへや
夢の通ひ路
人目よくらむ
訳:住江の岸にうち寄せる波、その「よる」という言葉のように、(人目のある昼はしかたがないにしても)夜までも、夢の中の通い路で、(あなたは)人目を避けているのだろうか。

 

私もたくさん失敗してきたのですが、
上の句だけ頑張って、下の句をいい加減に詠むと、
「この下の句は取ってつけたような感じだね」というツッコミを頂戴します。

「尻切れトンボ」みたいだ…と反省しまして、
今では下の句から詠みはじめるようにしています☆彡

いつか上記の「潮恋し~」のような初句切れの歌を詠んでみたいなぁ💕

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。 今日も一日、あなたがイキイキと生きられることをお祈り申し上げます✨

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