茶掛の禅語【9月】清風払明月
9月と言えば、中秋の名月。
煌々(こうこう)と照らす月に関する禅語をご紹介します。
なお、茶掛(ちゃがけ)とは、茶席に掛ける書画の掛物です。
目次
元の語/振り仮名・送り仮名と返り点を追加/書き下し文
口語訳
清らかな風が、雲一つない月を払い清めて、さらに明るさを増す。
31音口語訳
清風と
雲無き月が
双方に
祓い清めて
どちらも主役
禅語を味わう
有馬賴底著『必携 茶席の禅語ハンドブック』より、解説部分を引用させていただきます。
これは「清風払明月、明月清風払」(清風明月を払い、明月清風を払う)と対句に
なっています。
「明月」とは、陰暦八月十五日の、いわゆる十五夜のこと。これは仏教的に言いますと、真如(しんにょ)※の月、つまり何のまじりっけもないすばらしい月ということで、仏さまにたとえられる月のことです。そのいちばんすばらしい明月が空高く輝いている。そこに清風が吹く。「払(はら)う」というのは、風がさっと吹き抜けることで、月に雲などがかかっていれば、箒(ほうき)で掃(は)くようにそれを払ってしまう。ところが明月ですから、雲一つない澄みきった空です。その澄みきった空に皓々(こうこう)と輝く明月、そこへさらに清らかな風が吹くのですから、もうこれはいやがうえにも美しい、清らかな世界です。これは、これでもかこれでもかと暗雲が払い尽くされた、悟りの境地でもあります。
ただ明月が一つぽつんとあるだけでしたら、それはただの明月でしかありません。そこへ清風がさっと吹くことによって、その明月の美しさ、清らかさがいっそう強調されるのです。 そこが、この句の眼目です。
「明月清風を払う」も、この情況を言葉を換えて表現したもので、対句にすることで、よりいっそうその「清らかさ」が強調されています。※真如(しんにょ)・・・真は真実、如はその真実が変わらないこと。宇宙に遍在する根源的な実体をいう。法界、法性、実相、法身、仏性などともいう。
「払う」について
最初にこの禅語を伺った際に、払う(旧字の拂うだったのですが、意味は同じ)に違和感がありました。
漢和辞典で調べても、意味は「取り除く・拒否する・さからう・たたき切る」など、マイナスの意味が多くて不思議でした。
月の前にある雲を払うっていうことかな?とも思ったのですが、
「名月」は「くもりなく澄みわたった満月」なので、そもそも雲もないはず。
そこで調べた結果、「祓い清める」の意味だと思いました。
茶道では、ほこりがついていなさそうなお茶の道具を帛紗(ふくさ)という布で清める作法が多くあります。
清浄感を大事にするのは、禊(みそぎ)などを大事な作法としている神道とも同じでいいな♪と思っていました。
明月と名月
余談ですが、「明月」は「名月」とは字が違うので、どんな違いでしょうか?
辞書(精選版 日本国語大辞典)で調べますと、
「明月」は「晴れた夜の月。くもりなく澄みわたった満月。また、名月。」とあり、
「名月」は「陰暦八月十五夜の月。また、陰暦九月十三夜の月。」とあります。
「陰暦八月十五夜の月」は中秋の名月として知られていますね。
「陰暦九月十三夜の月」は中秋の名月の次いで月が美しいといわれています。
つまり、「明月」は「名月である今の9月10月の月」と、
「それ以外の曇っていない無い満月」の両方を含むのですね。
悟りの境地
さて、禅語の解釈に戻ります。
上記の引用に「これでもかこれでもかと暗雲が払い尽くされた、悟りの境地」とございます。
禅語では「雲」は「煩悩」なので、それをひたすら払い除けることで、悟りを開くことができるのですね!
対句の後半「明月清風を払う」は、月自体は動かないけれど、光を注ぐことで地上の清風さえも祓い清めることができるのかな?!と、月の光の魅力を感じました。
ちなみに「月光は万民に降り注ぐ仏の慈愛だ」とする法然上人の和歌もあります。
互いに主役
そのような意味でこの禅語を捉えるのも良いと思いますが、
茶道の先生からは「清風」と「明月」は両方とも9月の主役で、
茶道においては亭主と客の両方が主役だということを表していると教えていただきました。
これは大変です!清風や明月のように、相手の心を清めることが理想ということでしょう。
どんな振る舞い、どんな表情、どんな声掛けをすれば、
そうすることができるのか・・・。
茶道のお稽古に行って先生とお会いすると、いつも心が癒されています。
お寺の雰囲気も本当に風情があって、清めていただけます。
でも私自身は、先生や仲間に対して、そんな言動ができているのだろうか・・・。
これからはもっと気を引き締めて茶道のお稽古に臨もうと思いました!
なお、清風払明月の出典は『人天眼目』だそうです。
今日も一日、あなたがイキイキと生きられることをお祈り申し上げます✨