源氏物語と古事記と万葉集と君が代(おまけに鬼滅の刃)
意外な共通点の話を伺ったので、こちらに書き留めておきます。
『源氏物語』の末摘花
『源氏物語』に出てくる末摘花(すえつむはな)という女性。
光源氏が夜明けに雪明りで初めて顔を見た場面で、こう書かれています。
あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩(ふげんぼさつ)の乗物とおぼゆ。(中略)色は雪ははづかしく白うて、
訳:ああ見苦しいと思われるのは鼻であった。思わず目に留まる。普賢菩薩の乗物(のようだ)と思われる。(中略)顔の色は雪も(負けて)気後れするほど白くて、
では、普賢菩薩の乗物っていったい、どんな物でしょうか?
仏教系の大学である大正大学の大場朗先生から伺ったのですが、『観(かん)普賢菩薩行法教(ぎょうほうきょう)』に以下のようにあります。
普賢菩薩ハ(中略)化シテ白象ニ乗ル。(中略)象ノ鼻ハ紅ノ蓮華ノ色ナリ。
ポイントは「白い象」で、鼻の先に「紅蓮華(ぐれんげ)」が赤色になっていることです。
女性の描写として、かなり喜劇的ですよね。
『源氏物語』には他にも源典侍や近江君など、滑稽なキャラクターが出てきます。
喜劇と悲劇を共存させるのが日本文学の特徴だという文学評論の見方もあるそうです。
『古事記』天の岩屋に象徴されるように、神を導き出すために必要不可欠だとか。
※末摘花は親王の娘なのですが、父を亡くして貧乏暮らしなので、栄養失調で青白く、冬は寒くて鼻先も赤くなっているんです。
※普賢菩薩像の絵は、赤色だったり、紅蓮華の花を持っていたりするようです。
『鬼滅の刃』の紅蓮華
「紅蓮華」といえば、「強くなれる理由を知った~」という鬼滅の刃のオープニングソング(LiSAの学曲)のタイトル。
末摘花をイメージして作られたなんて可能性は0%だと思いますが、思わぬ共通点にビックリしました☆
なお、「蓮華」自体は仏像で仏様が乗っている「蓮(ハス)」の花なのですが、
鬼滅の刃の「紅蓮華」は彼岸花(ヒガンバナ)、別名:曼珠沙華(マンジュシャゲ)を指しています。
最大の敵が「青い彼岸花」を探し求めていますし、エンディングでも彼岸花が描かれていました。
ちなみに「彼岸(ひがん)」とは「三途(さんず)の川」の向う側のことです。
命懸けで戦う『鬼滅の刃』にピッタリの花ですよね。
『源氏物語』末摘花と『古事記』石長比売(いわながひめ)
『源氏物語』を書いた紫式部は『紫式部日記』のなかで「日本紀の御局」というあだ名と付けられちゃったと言っています。
なので『日本書紀』を読んでいたことは間違いないでしょう。
『古事記』と『日本書紀』は記載が違う部分もありますが、両方ともコノハナサクヤビメに該当する姫と、その姉のイワナガヒメに該当する姫がいます。
※『古事記』は木花之佐久夜毘売と石長比売、『日本書紀』は木花開耶姫と磐長姫という表記。
天孫降臨したニニギノミコトが美しいコノハナサクヤビメに求婚したところ、彼女のお父さんが承諾して、おまけに姉のイワナガヒメもどうぞと渡します。
けれど、ニニギノミコトはイワナガヒメを返してしまいます。
可哀想なイワナガヒメが返された理由は、『古事記』に「甚凶醜(いとみにくき)によりて」と書かれています。。。
※訓は『古事記 修訂版』西宮一民(おうふう)より
なお、日本書紀ではもう少し控えめに「為醜」という表記です。
イワナガヒメを返されて、お父さんがこのように言います。
「娘を二人そろえてお送りしたのは、イハナガヒメをお側に置かれれば、この先、天つ神の御子の寿命は、雪が降ろうが風が吹こうが、ずっと岩のように確実な長いものになるからでございました。 コノハナノサクヤビメを差し上げたのは、木に咲く花のように御代が栄えることを願ってのことでございました。 お側にコノハナノサクヤビメだけを留められた以上、天つ神の御子の寿命は木の花のように儚(はかな)いものになるでしょう」と言った。
その故に今に至るまで天皇(すめらみこと)の命は長くないのである。『古事記』池澤夏樹 訳(河出書房新社)より
つまり、岩は永遠や長寿の象徴なのです。
さて、このイワナガヒメと末摘花にどんな共通点があるんだろうと思いますよね。
それは岩と(末摘花が普賢菩薩の乗物とたとえられた)象の共通点。
どっしりと重いことです。
先述の大場先生が仰るには、光源氏は末摘花の醜さに驚きつつも、見放さずにずっと経済的に支援してあげるのは、光源氏の盤石を象徴しているとのことです。
『万葉集』にある「いわ」
岩が永遠や長寿の象徴であるのは、各国の神話でもそうだそうです。
比較神話学は詳しくないのでここでは割愛して、『万葉集』にある歌を一首ご紹介します。
十市皇女(とをちのひめみこ)が伊勢の神宮に参拝した時に、侍女が十市皇女の幸を祈って詠んだ歌です。
河の上(へ)の
斎(ゆ)つ岩群(いはむら)に
草生(む)さず
常(つね)にもがもな
常(とこ)乙女にて
訳:川のほとりの神聖な岩々には苔草も生えていない。(あのように)常に変わらずにいてほしい。永遠の乙女として。
この歌における「岩」はやはり、永遠や長寿の象徴です。
「君が代」の「いわ」
最後に、国家「君が代」にも繋がっちゃいます。
君が代は
千代に八千代(やちよ)に
細石(さざれいし)の
巌(いはほ)となりて
苔の生(む)すまで
二句目の後は「ましませ」が省略されています。
※『古今集』など、昔の歌では「我が君は千代にましませ」でした。
「ましませ」は「坐(ま)します」の命令形。「坐します」は「あり(=生きている・無事に暮らしている)」の尊敬語。
相手の長寿を祈る歌として有名だったので、述語の「ましませ」は「みんな分かるよね。言ったら野暮だよね」というふうに、省略されたのだと思われます。
三句目からは喩えです。「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるくらいまで」という意味です。
やっぱり岩は、永遠や長寿の象徴です☆
この「岩」の他にも古典を読み解く際には物・植物・数字など、いろいろなものが「記号」としての役割を果たしています。
例えば男性がプロポーズするときには「薔薇」の花束100本だと「愛」を表していてピッタリですが、
それが「たんぽぽ」や「菊」の花束だったら、・・・プロポーズは失敗しちゃいそうですよね。
古典や文学の勉強っておもしろいなって少しでも思ってもらえたら嬉しいです。
長文にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。