沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 斎藤茂吉

雨の日にぶどうを見かけたら思い出したい歌

沈黙の
われに見よとぞ
百房ももふさ
黒き葡萄ぶどう
雨ふりそそぐ
 斎藤茂吉

現代語訳(意訳)

沈黙している私に(天が)「見よ」と言うかのように、豊富に実った黒い葡萄に雨が降りそそぐ。

古典文法・古文単語解説

(見よ)と
引用の格助詞。

(見よと)ぞ
強調の係助詞。

百(房)
(名詞の上に付いて)非常に多数である意を表す接頭語。たくさんの~。
百草ももくさ」 「百枝ももえ」 「百千鳥ももちどり」など。

和歌を味わう

斎藤茂吉が昭和20年(1945年)の9月上旬に詠んだ歌です。

「沈黙の我」というのは、敗戦の衝撃や悔しさから、沈黙だったのだと思います。

二句目に「見よ」という命令形の語があります。
これは誰のメッセージでしょうか?
葡萄なのか、雨なのか、あるいはそれら自然をつかさどる天でしょうか?

そして、なぜ「見よ」なのでしょうか?
見ることで、何かに気づかせたいということでしょうか?

私は、こう感じました。

葡萄は作者と同じく沈黙している。
そして、雨に打たれても、腐ることなく、瑞々しく輝く。
さらに雨を根から吸収して大きく育っている。

この雨は人間にとっての敗戦、あるいは敗戦での涙になぞらえることができる。
敗戦に涙しても、心を腐らせることなく、輝いていけ。
この苦難をむしろ糧として、日本を復興させていけ。

そんなふうに、天に励まされた気持ちになったのではないでしょうか。

 

noteでヨジローさんという方が、当時の斎藤茂吉の短歌や日記をまとめ、「沈黙」などの意味を解き明かして下さっています。

茂吉は敗戦の屈辱を胸底に抑え込み、自分に「沈黙」を課した。

(中略)

黙々と雨に打たれ続ける葡萄は、おまえの沈黙はその程度のものなのか? と茂吉を叱責する。だが同時に、おまえも俺たちのように黙し続けるんだ、と励ましてくれる。そして、沈黙し続けているのはおまえだけではないぞ、と慰めてくれる。

ヨジローさんのnote「斎藤茂吉の短歌「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」」より)

 
実はこのページを作成しようと思ったのは、上記のヨジローさんの記事に感銘を受けたからです。
興味がある方はぜひご覧ください!
 
この「沈黙の~」の短歌に関する他の方の記事に、「戦時中、戦意を昂揚させる愛国歌を多数作ってきた茂吉は、このとき、表現者として戦争に加担してしまったことを後悔していたかもしれません。表現者として「沈黙」していたことへの悔恨の気持ちが見てとれます。」などとあって、えっ??本当に???という気持ちになったので、細かく調べてくださったヨジローさんには心から感謝しております。
 
はっきりしているのは、戦意高揚の歌を作ってきたことへの反省や、そのことによって批判されることへの懸念は、この時期の茂吉の中にはまったくないということである
(引用元、同じ)
 
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

今日も一日、あなたがイキイキと生きられることをお祈り申し上げます✨

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